2026年7月29日水曜日
2026年7月28日火曜日
文学と歴史の香る我孫子ウオーキング
6月24日、千葉県ウオーキング協議会主催の「我孫子文学散歩」を実施しました。当日は8人が参加。手賀沼周辺の文化的な見どころを訪ねました。主なコースは、我孫子駅から杉村楚人冠記念館、志賀直哉邸跡、白樺文学館、手賀沼親水広場へ進み、最後はバスで我孫子駅へ戻るというものでした。
見学の様子
最初に訪れた杉村楚人冠記念館では、新聞人として活躍した杉村楚人冠の足跡や、当時の暮らしをしのばせる建物・資料に触れることができました。静かな邸園のたたずまいからは、手賀沼の自然を愛した楚人冠の思いが感じられました。
続いて志賀直哉邸跡を訪ねました。白樺派を代表する作家である志賀直哉が我孫子で暮らし、創作活動を行った場所に立つことで、作品の背景にある土地の空気を身近に感じることができました。
白樺文学館では、志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤ら白樺派の文人たちと我孫子との関わりについて学びました。展示資料を通して、手賀沼湖畔が多くの文化人に愛された地であったことを改めて知ることができました。
その後、手賀沼親水広場へ向かいました。水辺の開放的な景色を眺めながら歩く時間は心地よく、文学散歩の締めくくりにふさわしいひとときとなりました。参加者同士で感想を交わしながら、手賀沼の自然と我孫子の文化の豊かさを実感しました。
感想
今回の散歩では、我孫子が単なる自然豊かなまちであるだけでなく、日本近代文学や文化に深く関わる土地であることを学びました。歩くことで距離感や地形を実感でき、文人たちがこの地に魅力を感じた理由にも思いを巡らせることができました。
8人という少人数での参加だったため、落ち着いた雰囲気の中で見学でき、参加者同士の交流も深まりました。文学、歴史、自然を一度に味わえる充実したウオーキングとなりました。
・手賀沼の富士の見えぬも梅雨さかり
・梅雨湿り鈍き音して鹿おどし
・横断幕夏の我孫子にサッカーヒーロー
・六月の大正ガラス歪み雨
事務局長 日野正生・記
2026年6月9日火曜日
2021年7月31日土曜日
鎌取・おゆみ野遊歩道ウオーキング
6月18日(金)JR鎌取駅に9名が集合。新しく3名の方を迎えて、和やかな一日となりました。
鎌取駅・鎌取の市街地は近代的な造りで大変美しくファンタステイックな町でした。
実は江戸時代ここは牧草などの草刈り場でした。全国的に人気のあるある草刈歌『朝の出がけ』はここで牛や馬のための草を刈るときの歌なのです。村人が草刈り場を求めてけんかをしよく鎌を奪われるという事件が起きたので、この地を『鎌取』というようになったという伝説が伝わっています。
駅を出発し太鼓橋のような歩道から市街地を下に見ながら、「おゆみ野遊歩道」に向かいました。
我が妻が岡山県新見市出身と気が付いた鮫島さん「私は新見の近くに住んでいたのよ。」と言ことで、ふるさと談議で盛り上がったウオーキングでした。前田さんとは富山の方言のあれこれで盛り上がりました。
「はるのみち公園」から「有吉公園」へ。途中の草花やもみじのヘリコプターのようなくるくる回る種と戯れながらのウオーキング。いよいよ有吉公園から「泉谷公園」へ。「この木なんの木?クイズラリー」を楽しみながら自然散策を楽しみました。中でも泉から湧き出た水を利用した「ゲンジボタル」の飛び交う小川が作ってあり、ホタルの幼虫の餌となるニナ貝を見ながら心が洗われるような散策を楽しみました。
最後に「ホタル生態園」を見学して帰途につきました。
合計7キロメートルのウオーキングでした。
(文責 日野正生)
2020年10月24日土曜日
加曾利貝塚
「日本一の規模・加曾利貝塚公園」
コロナ雨雨雨で、できなかった健康ウオーキング例会を9月18日(金)に、やっと開催することができました。新メンバー岩崎さんを迎え12名で出発しました。コロナ感染を防ぐために車を使わずに、モノレールで出かけました。スポーツセンター駅から乗車し桜木駅を下車し「加曾利貝塚公園」までウオーキング。当日は台風並みの風でマフラーや帽子を手で押さえながらのウオーキングです。
加曾利貝塚は千葉市桜木町に所在する国の指定史跡で、千葉市街を流れる都川の河口から東へ約6kmさかのぼった地点にあります。縄文中期に発達した北貝塚は直径160m幅15m、後期に発達した南貝塚は直径185m幅25mの馬蹄形の貝塚で、どちらも高さ2~3mの貝層が堆積しています。
公園の入口を入り、まず北貝塚断層面の発掘保存館を見学。加曾利貝塚初参加者が4人。「へえ、色々な貝を食べていたんですね。」と感心しきり。
イボキサゴ・アサリ・マガキ・ハマグリ・イタボガキ・バカガイ等々種類も豊富です。これらは自分たちの食用だけではなく、加工して物々交換として使っていました。
動物たちの遺骸もたくさん発掘されています。タヌキ・イノシシ・シカなど。縄文人の狩猟生活をかいま見ることができます。
博物館の資料によると、大きな穴を掘ってそこに追い込んで、穴に落として、弓や槍でしとめたらしいですね。(泉自然公園には「シシ落とし」という穴というか掘りが残っていたことを覚えていますか?)しかも穴にはくいをたくさん打って動物を引き上げる時に傷つかないような工夫もしたようです。同時に犬の骨が完全遺体で発掘されています。博物館で展示してありました。
多くの動物の遺体の中で完全遺体は犬だけです。どうしてでしょうね。貝塚からは色々な骨が出土するが犬以外の骨はばらばらに折られたり、割られたりした状態で発見されています。ただ、全ての犬が完全遺体で発見されたわけではありません。今度加曾利貝塚に行ったら聞いてみたいですね。皆さんはどう思いますか?
次は南貝塚の方に向かいました。同じく貝塚の断層面を見学して博物館に到着。コロナ対策で学芸員の案内なしでの見学となりました。それでも様々の発見があり少々興奮気味でした。我々の最初の疑問は、「縄文時代は何年続いたのだろうか」でした。年表を数えてみたら、一万二千年も続いていました。しかし、どうしてそんなに長く続いたのでしょうか。これも更に課題として残りました。一つ分かっていることは縄文時代は争いがなく平和な時代だったことです。
次の話題が「土偶」のことです。「土偶はなぜ作られたのか」「土偶はなぜ女性ばかりなのか」
土偶は縄文中期から現れ、しかも、人為的に破壊された状態で発見されています。土偶が「生殖力のシンボル」と同時に「焼畑」のタイプの原始的農耕が行われていたことを意味しています。破壊された状態で出土する縄文土偶が家の中や野外などに分けられて埋められていたのは、五穀豊穣を願っての信仰があったことを意味します。古代農耕民族は女神が死ぬとそこから色々な作物が生まれてくるという考えを持っています。因みに「古事記」の中にも「イザナミの尊」が死んだあと彼女の体からたくさんの神々や豊穣が生み出されていったとされています。スサノウに殺されたオホゲツヒメの体からは稲をはじめたくさんの食用植物が生まれています。女性を形作った壊れた土偶から色々な作物が生まれることを願ったのだと思います。(私は神話の国出雲で生まれ育ちました。出雲ではスサノウが英雄です。)日本神話の原型を土偶を通して発見することができました。焼畑農耕では稲ではなく、イモ類や各種雑穀だと思われます。(稲栽培は弥生時代)
次の話題になったのが縄文人の服装や装飾品です。展示には麻で作った服を着て麻で編んだポシェットを肩にかけた女性が展示してありました。既に麻などの植物の繊維を編んで糸を作る技術が発達していたということです。なるほど植物の繊維で縄を編んで土器に押し付け模様を付けた縄文土器もうなづけます。麻の繊維を草木染で染めていました。なかなかのおしゃれともいえます。土偶をみるとパンツをはいた土偶もあるので女性はきちんとパンツを作ってはいていたことも分かりました。貝や鹿の角で作った腕輪、櫛、首飾りを付けていました。冬は毛皮、暖かい時は麻の服を着ていたと思われました。
博物館を出た後は復元された竪穴式住居の見学に向かいました。偶然解説してくださるボランティアの人がいたので復元竪穴式住居の中で火起こし体験や質問に答えてもらったりしました。
・縄文時代は氷河期が終わり暖かかった。
・加曾利貝塚に人骨がほとんど残っていないのは関東ローム層が火山灰でできているため酸性で骨が溶けてしまうから。偶然残っているのは貝塚の貝がアルカリで土壌を中和してくれたから。
・一つの家には家族単位で暮らしていた。夫婦と子供。
家の中央に炉があり、絶えず火を燃やしていて、炉の上には枝を組み合わせた棚がつるしてありそこで肉や魚、貝、ドングリなどの燻製を作っていた。(保存食として)
炉の周りに草を敷くか毛皮を敷いて寝ていた。
・主食はドングリ。ドングリクッキーはドングリの粉に山芋かサトイモを繋ぎにしてこねて焼いたもの思われる。
まだまだ質問したいことがあったのですが、コロナ感染の防衛と昼食のために博物館横の広場へ移動。
私のふるさと島根県の20世紀ナシを味わいながら昼食お弁当タイム。そこでの話題は「縄文人はどこから来たのだろうか?」でした。これは10月例会の佐倉国立民族学博物館で改めて考えたいと思います。日本人のルーツは?縄文人のルーツは?
昼食後は貝塚とは関係ありませんが旧大須賀家の代官屋敷を見学して帰宅に向かいました。(これは文化遺産保存のため加曾利貝塚公園に寄贈されたものです。)
2020年10月4日日曜日
「日本一の規模・加曾利貝塚公園」
コロナ雨雨雨で、できなかった例会を9月18日(金)に、やっと開催することができました。新メンバー岩崎さんを迎え12名で出発しました。コロナ感染を防ぐために車を使わずに、モノレールで出かけました。スポーツセンター駅から乗車し桜木駅を下車し「加曾利貝塚公園」までウオーキング。当日は台風並みの風でマフラーや帽子を手で押さえながらのウオーキングです。
加曾利貝塚は千葉市桜木町に所在する国の指定史跡で、千葉市街を流れる都川の河口から東へ約6kmさかのぼった地点にあります。縄文中期に発達した北貝塚は直径160m幅15m、後期に発達した南貝塚は直径185m幅25mの馬蹄形の貝塚で、どちらも高さ2~3mの貝層が堆積しています。
公園の入口を入り、まず北貝塚断層面の発掘保存館を見学。加曾利貝塚初参加者が4人。「へえ、色々な貝を食べていたんですね。」と感心しきり。
イボキサゴ・アサリ・マガキ・ハマグリ・イタボガキ・バカガイ等々種類も豊富です。これらは自分たちの食用だけではなく、加工して物々交換として使っていました。
動物たちの遺骸もたくさん発掘されています。タヌキ・イノシシ・シカなど。縄文人の狩猟生活をかいま見ることができます。
博物館の資料によると、大きな穴を掘ってそこに追い込んで、穴に落として、弓や槍でしとめたらしいですね。(泉自然公園には「シシ落とし」という穴というか掘りが残っていたことを覚えていますか?)しかも穴にはくいをたくさん打って動物を引き上げる時に傷つかないような工夫もしたようです。同時に犬の骨が完全遺体で発掘されています。博物館で展示してありました。
多くの動物の遺体の中で完全遺体は犬だけです。どうしてでしょうね。貝塚からは色々な骨が出土するが犬以外の骨はばらばらに折られたり、割られたりした状態で発見されています。ただ、全ての犬が完全遺体で発見されたわけではありません。今度加曾利貝塚に行ったら聞いてみたいですね。皆さんはどう思いますか?
次は南貝塚の方に向かいました。同じく貝塚の断層面を見学して博物館に到着。コロナ対策で学芸員の案内なしでの見学となりました。それでも様々の発見があり少々興奮気味でした。我々の最初の疑問は、「縄文時代は何年続いたのだろうか」でした。年表を数えてみたら、一万二千年も続いていました。しかし、どうしてそんなに長く続いたのでしょうか。これも更に課題として残りました。一つ分かっていることは縄文時代は争いがなく平和な時代だったことです。
次の話題が「土偶」のことです。「土偶はなぜ作られたのか」「土偶はなぜ女性ばかりなのか」
土偶は縄文中期から現れ、しかも、人為的に破壊された状態で発見されています。土偶が「生殖力のシンボル」と同時に「焼畑」のタイプの原始的農耕が行われていたことを意味しています。破壊された状態で出土する縄文土偶が家の中や野外などに分けられて埋められていたのは、五穀豊穣を願っての信仰があったことを意味します。古代農耕民族は女神が死ぬとそこから色々な作物が生まれてくるという考えを持っています。因みに「古事記」の中にも「イザナミの尊」が死んだあと彼女の体からたくさんの神々や豊穣が生み出されていったとされています。スサノウに殺されたオホゲツヒメの体からは稲をはじめたくさんの食用植物が生まれています。女性を形作った壊れた土偶から色々な作物が生まれることを願ったのだと思います。(私は神話の国出雲で生まれ育ちました。出雲ではスサノウが英雄です。)日本神話の原型を土偶を通して発見することができました。焼畑農耕では稲ではなく、イモ類や各種雑穀だと思われます。(稲栽培は弥生時代)
次の話題になったのが縄文人の服装や装飾品です。展示には麻で作った服を着て麻で編んだポシェットを肩にかけた女性が展示してありました。既に麻などの植物の繊維を編んで糸を作る技術が発達していたということです。なるほど植物の繊維で縄を編んで土器に押し付け模様を付けた縄文土器もうなづけます。麻の繊維を草木染で染めていました。なかなかのおしゃれともいえます。土偶をみるとパンツをはいた土偶もあるので女性はきちんとパンツを作ってはいていたことも分かりました。貝や鹿の角で作った腕輪、櫛、首飾りを付けていました。冬は毛皮、暖かい時は麻の服を着ていたと思われました。
博物館を出た後は復元された竪穴式住居の見学に向かいました。偶然解説してくださるボランティアの人がいたので復元竪穴式住居の中で火起こし体験や質問に答えてもらったりしました。
・縄文時代は氷河期が終わり暖かかった。
・加曾利貝塚に人骨がほとんど残っていないのは関東ローム層が火山灰でできているため酸性で骨が溶けてしまうから。偶然残っているのは貝塚の貝がアルカリで土壌を中和してくれたから。
・一つの家には家族単位で暮らしていた。夫婦と子供。
家の中央に炉があり、絶えず火を燃やしていて、炉の上には枝を組み合わせた棚がつるしてありそこで肉や魚、貝、ドングリなどの燻製を作っていた。(保存食として)
炉の周りに草を敷くか毛皮を敷いて寝ていた。
・主食はドングリ。ドングリクッキーはドングリの粉に山芋かサトイモを繋ぎにしてこねて焼いたもの思われる。
まだまだ質問したいことがあったのですが、コロナ感染の防衛と昼食のために博物館横の広場へ移動。
日野のふるさと島根県の20世紀ナシを味わいながら昼食お弁当タイム。そこでの話題は「縄文人はどこから来たのだろうか?」でした。これは10月例会の佐倉国立民族学博物館で改めて考えたいと思います。日本人のルーツは?縄文人のルーツは?
昼食後は貝塚とは関係ありませんが旧大須賀家の代官屋敷を見学して帰宅に向かいました。(これは文化遺産保存のため加曾利貝塚公園に寄贈されたものです。)
2020年6月15日月曜日
5月例会・千葉市動物公園からスポーツセンターへ
お日様もほどほど、風もそよそよ、まさにウオーキング日和。10時モノレール動物公園駅に集合。コロナ渦中でもあり参加者は5人でした。
動物公園の周辺歩道をおしゃべりしながらゆっくり歩き、途中、まっすぐ続くメタセコイア並木の道を振り返りながら、一時大流行した韓国ドラマ「冬のソナタ」に夢中になったことを思い出しました。
少し疲れたところで木陰のベンチで休憩を取り水分補給をしてスポーツセンターにまわりました。
スポーツセンターではすっかり緑になった葉をつけた木の下でそれぞれいっぱいに広がり昼食となりました。
2020年3月29日日曜日
2020年2月1日土曜日
2020/1月例会・鋸南町・水仙まつり
鋸南町水仙まつり「江月水仙ロード・をくずれ水仙の里」ウォーキング
1月17日(金)、前日までの雨も上がり好天。絶好のウオーキング日和。参加者14名、車3台に分乗して出発。
今月のウオーキングは鋸南町の「水仙まつり」「をくずれ水仙の里ウオーキング」と「江月水仙ロードウオーキング」です。
「をくずれ水仙の里」は佐久間ダムの周りの斜面を利用して水仙を栽培しています。毎年、次々と山の斜面を切り開き、水仙を植え付けています。夜は斜面をライトアップして観光客を楽しませています。
佐久間ダムには1周2kmの散策道路の他、各種ハイキングコースが用意してあるが、今回は、ダムの周りをウオーキングしてきました。
ところが、昨年の台風被害と水害があり、水を抜き土手の点検中とのこと。鴨などの水鳥は一匹もいません。ちょっとがっかり。
昼食のために「道の駅保田小学校」に車で移動。「道の駅保田小学校」は廃校を利用した道の駅で、体育館や校舎の1階は店舗になっていて地元の産物が並んでいます。2階は宿泊施設になっているというユニークな施設です。
鋸南町は江戸時代より冬でも暖かい気候を利用してのスイセン栽培が盛んでした。冬、花が少ない時なので、江戸の人たちは大変喜んだそうです。その伝統を残そうと鋸南町の人たちは水仙栽培に努力を続けています。
昼食後、江月水仙ロードの散策です。往復7.5キロメートルのハイキングコースです。道々道路の両側の水仙を眺めながらの気持ちのいいウオーキングでした。地元の農家より水仙や菜の花、みかんを買いながらの散策も楽しいものでした。
珍しく、参加者全ての人が、全コースを歩き切ることができました。帰り道は大きな富士山を見ながらのウオーキングでした。
2020年1月28日火曜日
12月例会 餅つき大会
12月は恒例「餅つき大会」です。16名の参加。車3台で若葉区「木漏れ日の里」へ向かいました。千葉県スポーツ連盟理事長の園川さん、事務局長の佐々木さんも応援に駆けつけてくれました。園川さんは成田年金者組合、佐々木さんは八千代年金者組合のメンバーでもあります。他支部との交流も目指しているサークル活動の第一歩となりました。
木漏れ日の里では、久しぶりの訪問で宍倉ご夫妻(郷土史家)が大喜びで迎えてくださいました。台風と水害で家の横の鹿島川が溢れ、庭や畑が水没しました。特に庭はテーブルや丸太で作った椅子が流され、行方不明になりました。
今年は「餅3臼」「けんちん汁」という献立でした。
昨年は骨折のため石橋さんが餅つきができなかったのですが今年は復活。おまけに、スポーツ連盟からの園川・佐々木も付いてくださりあっという間に3臼つきあげることができました。それも全く素晴らしいつき加減で滑らかな美味しいお餅が出来上がりました。
さっそく、つきたてのお餅を「きな粉餅」からみ餅」「あんこ餅」けんちん汁に入れて「雑煮餅」と思い思いの方法で味わいました。
けんちん汁も最高のおいしさ。口々に「おいしい」の声が漏れていました。
今回は、会食をしながらスポーツ連盟との交流をいたしました。去年全国交流ウオーキング(全国スポーツ祭典)に8名で参加してきた訳ですが、今年は11月7日(土)・8日(日)に計画されていて、箱根を歩きます。
2キロコース・4キロコース・6キロコース・8キロコースが用意してあります。たくさん参加できるように準備を進めます。私たちの仕事は宴会係です。
昼食後は「妙興寺」「お杖桜遺跡」に向けて1時間のウオーキングをしました。
2019年12月17日火曜日
2019年12月1日日曜日
2019年11月3日日曜日
2019年6月8日土曜日
南房総・ビワ狩りウオーキング
フェリーで金谷港に到着すると、先ずは「岩田ビワ園」でビワ狩りを楽しみました。採りたての大きなビワを堪能しました。
ビワを堪能した次は大房岬自然公園でウオーキングとお弁当タイム。晴天に恵まれて、真っ青な空と真っ青な海に見とれながらのウオーキング。
2019年5月5日日曜日
4月例会・悠久の歴史と春の風上総国分寺・国分尼寺・高滝湖ウォーキングin市原
まずは史跡上総国分寺・上総国分尼寺の散策から。
上総国分寺跡は茅葺の本堂をはじめ現在も国分寺が続いていて境内に立つと2000年前にタイムスリップしたように感じる不思議な雰囲気を醸し出していました。
続いて近くにある「上総国分尼寺」に向かいました。ここには、「史跡国分尼寺跡展示館」があり中門・回廊が復元されています。朱の染料は当時のものと同じものを使い、建造物も当時と同じ工法で建立してありました。
上総国分寺・上総国分尼寺は今から千二百五十年前の奈良時代中期に建てられました。国分寺は国の平和と繁栄を祈るために、全国六十か所余り建てられた国立寺院です。
国分寺が創建された天平年間は、異常現象が続き、天候が不順で作物が実らず、人々は飢えや疫病に苦しんでいました。聖武天皇と光明皇后は、こうした社会不安や政治の混乱を仏教の力で鎮めようと国分寺を建立しました。
上総国分尼寺は東京ドーム3個分の広さあり、現在はドーム1個分が発掘されているとのこと。当時の権力者の凄さを感じさせられました。
たっぷり歴史を堪能した後第2の目的地「高滝湖」へ向かいました。
高滝湖は千葉県最大の貯水面積を誇るダム湖で1周5km。お弁当を食べてから美術館見学と散策組とウォーキング組に分かれて歩きました。心地よい一日を過ごすことができ満足満足。(日野正生・記)
2019年3月5日火曜日
館山城公園散策/2月例会
館山道市原パーキングを過ぎたあたりから粉雪が舞い始め、生憎の空模様のなかの館山城公園散策となりました。参加者11名。先月の例会初参加の大津さん、ほとんど歩けなかったことを反省し、ウオーキングの練習に励んで今回に臨みました。自信が付きウォーキング協議会に加入しました。
まずは標高68.5mの館山城に向かって「椿の径」の坂道を登り梅園に。頂上にある公園の魅力は「梅園」に併設した「万葉の径」である。ここでは、万葉の人々が、どのような暮らしをしてどのような草花に心を通わせていたかを植物100種が和歌と共に紹介されています。万葉集に登場する植物はおよそ160種類ですから充実した散策路と言えます。
表示札の一つに山上憶良の「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなえしまた藤袴朝顔の花」があり万葉の人々が愛でた秋の七草に思いをはせることができました。
梅園の梅を鑑賞した後館山城へ。
館山城は東京湾が眼下に広がり、遠くには富士山の姿を望む市民には人気のある公園です。館山城は1950年(天正8年)、里見義頼によって築城。里見氏は三浦半島から東京湾を船で安房国に渡り、房州白浜の野島崎に着き、房総里見氏の活動が始まります。戦国時代には千葉氏と房総を二分して勢力を競いました。大名にまでのし上がった里見氏だが、江戸時代、東京湾入口を押さえることができる力に脅威を感じた幕府は国替えをさせ没落させました。
なお、帰りに車中から見た「鶴ケ谷八幡宮」は里見氏歴代の鎌倉に進出したいという目標によって造られ、鎌倉の「鶴岡八幡宮」を模した神社である。
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9月例会 加曾利貝塚ウオーキング 10月例会 佐倉ウオーキング 11月例会 銚子港ウオーキング 12月例会 木漏れ日の里・餅つき大会
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6月18日(金) JR 鎌取駅に9名が集合。新しく3名の方を迎えて、和やかな一日となりました。 鎌取駅・鎌取の市街地は近代的な造りで大変美しくファンタステイックな町でした。 実は江戸時代ここは牧草などの草刈り場でした。全国的に人気のあるある草刈歌『朝の出がけ』はここで牛や...











