2021年7月31日土曜日

鎌取・おゆみ野遊歩道ウオーキング

6月18日(金)JR鎌取駅に9名が集合。新しく3名の方を迎えて、和やかな一日となりました。

鎌取駅・鎌取の市街地は近代的な造りで大変美しくファンタステイックな町でした。

実は江戸時代ここは牧草などの草刈り場でした。全国的に人気のあるある草刈歌『朝の出がけ』はここで牛や馬のための草を刈るときの歌なのです。村人が草刈り場を求めてけんかをしよく鎌を奪われるという事件が起きたので、この地を『鎌取』というようになったという伝説が伝わっています。

駅を出発し太鼓橋のような歩道から市街地を下に見ながら、「おゆみ野遊歩道」に向かいました。

我が妻が岡山県新見市出身と気が付いた鮫島さん「私は新見の近くに住んでいたのよ。」と言ことで、ふるさと談議で盛り上がったウオーキングでした。前田さんとは富山の方言のあれこれで盛り上がりました。

「はるのみち公園」から「有吉公園」へ。途中の草花やもみじのヘリコプターのようなくるくる回る種と戯れながらのウオーキング。いよいよ有吉公園から「泉谷公園」へ。「この木なんの木?クイズラリー」を楽しみながら自然散策を楽しみました。中でも泉から湧き出た水を利用した「ゲンジボタル」の飛び交う小川が作ってあり、ホタルの幼虫の餌となるニナ貝を見ながら心が洗われるような散策を楽しみました。

最後に「ホタル生態園」を見学して帰途につきました。

合計7キロメートルのウオーキングでした。

(文責 日野正生)


 

2020年10月24日土曜日

加曾利貝塚

 

「日本一の規模・加曾利貝塚公園」

コロナ雨雨雨で、できなかった健康ウオーキング例会を918日(金)に、やっと開催することができました。新メンバー岩崎さんを迎え12名で出発しました。コロナ感染を防ぐために車を使わずに、モノレールで出かけました。スポーツセンター駅から乗車し桜木駅を下車し「加曾利貝塚公園」までウオーキング。当日は台風並みの風でマフラーや帽子を手で押さえながらのウオーキングです。

加曾利貝塚は千葉市桜木町に所在する国の指定史跡で、千葉市街を流れる都川の河口から東へ約6kmさかのぼった地点にあります。縄文中期に発達した北貝塚は直径160m15m、後期に発達した南貝塚は直径185m幅25mの馬蹄形の貝塚で、どちらも高さ2~3mの貝層が堆積しています。

公園の入口を入り、まず北貝塚断層面の発掘保存館を見学。加曾利貝塚初参加者が4人。「へえ、色々な貝を食べていたんですね。」と感心しきり。

イボキサゴ・アサリ・マガキ・ハマグリ・イタボガキ・バカガイ等々種類も豊富です。これらは自分たちの食用だけではなく、加工して物々交換として使っていました。

動物たちの遺骸もたくさん発掘されています。タヌキ・イノシシ・シカなど。縄文人の狩猟生活をかいま見ることができます。

博物館の資料によると、大きな穴を掘ってそこに追い込んで、穴に落として、弓や槍でしとめたらしいですね。(泉自然公園には「シシ落とし」という穴というか掘りが残っていたことを覚えていますか?)しかも穴にはくいをたくさん打って動物を引き上げる時に傷つかないような工夫もしたようです。同時に犬の骨が完全遺体で発掘されています。博物館で展示してありました。

多くの動物の遺体の中で完全遺体は犬だけです。どうしてでしょうね。貝塚からは色々な骨が出土するが犬以外の骨はばらばらに折られたり、割られたりした状態で発見されています。ただ、全ての犬が完全遺体で発見されたわけではありません。今度加曾利貝塚に行ったら聞いてみたいですね。皆さんはどう思いますか?

次は南貝塚の方に向かいました。同じく貝塚の断層面を見学して博物館に到着。コロナ対策で学芸員の案内なしでの見学となりました。それでも様々の発見があり少々興奮気味でした。我々の最初の疑問は、「縄文時代は何年続いたのだろうか」でした。年表を数えてみたら、一万二千年も続いていました。しかし、どうしてそんなに長く続いたのでしょうか。これも更に課題として残りました。一つ分かっていることは縄文時代は争いがなく平和な時代だったことです。

 次の話題が「土偶」のことです。「土偶はなぜ作られたのか」「土偶はなぜ女性ばかりなのか」

土偶は縄文中期から現れ、しかも、人為的に破壊された状態で発見されています。土偶が「生殖力のシンボル」と同時に「焼畑」のタイプの原始的農耕が行われていたことを意味しています。破壊された状態で出土する縄文土偶が家の中や野外などに分けられて埋められていたのは、五穀豊穣を願っての信仰があったことを意味します。古代農耕民族は女神が死ぬとそこから色々な作物が生まれてくるという考えを持っています。因みに「古事記」の中にも「イザナミの尊」が死んだあと彼女の体からたくさんの神々や豊穣が生み出されていったとされています。スサノウに殺されたオホゲツヒメの体からは稲をはじめたくさんの食用植物が生まれています。女性を形作った壊れた土偶から色々な作物が生まれることを願ったのだと思います。(私は神話の国出雲で生まれ育ちました。出雲ではスサノウが英雄です。)日本神話の原型を土偶を通して発見することができました。焼畑農耕では稲ではなく、イモ類や各種雑穀だと思われます。(稲栽培は弥生時代)

次の話題になったのが縄文人の服装や装飾品です。展示には麻で作った服を着て麻で編んだポシェットを肩にかけた女性が展示してありました。既に麻などの植物の繊維を編んで糸を作る技術が発達していたということです。なるほど植物の繊維で縄を編んで土器に押し付け模様を付けた縄文土器もうなづけます。麻の繊維を草木染で染めていました。なかなかのおしゃれともいえます。土偶をみるとパンツをはいた土偶もあるので女性はきちんとパンツを作ってはいていたことも分かりました。貝や鹿の角で作った腕輪、櫛、首飾りを付けていました。冬は毛皮、暖かい時は麻の服を着ていたと思われました。

博物館を出た後は復元された竪穴式住居の見学に向かいました。偶然解説してくださるボランティアの人がいたので復元竪穴式住居の中で火起こし体験や質問に答えてもらったりしました。

・縄文時代は氷河期が終わり暖かかった。

・加曾利貝塚に人骨がほとんど残っていないのは関東ローム層が火山灰でできているため酸性で骨が溶けてしまうから。偶然残っているのは貝塚の貝がアルカリで土壌を中和してくれたから。

・一つの家には家族単位で暮らしていた。夫婦と子供。

家の中央に炉があり、絶えず火を燃やしていて、炉の上には枝を組み合わせた棚がつるしてありそこで肉や魚、貝、ドングリなどの燻製を作っていた。(保存食として)

炉の周りに草を敷くか毛皮を敷いて寝ていた。

・主食はドングリ。ドングリクッキーはドングリの粉に山芋かサトイモを繋ぎにしてこねて焼いたもの思われる。

まだまだ質問したいことがあったのですが、コロナ感染の防衛と昼食のために博物館横の広場へ移動。

私のふるさと島根県の20世紀ナシを味わいながら昼食お弁当タイム。そこでの話題は「縄文人はどこから来たのだろうか?」でした。これは10月例会の佐倉国立民族学博物館で改めて考えたいと思います。日本人のルーツは?縄文人のルーツは?

昼食後は貝塚とは関係ありませんが旧大須賀家の代官屋敷を見学して帰宅に向かいました。(これは文化遺産保存のため加曾利貝塚公園に寄贈されたものです。)